福岡事件とは?

事件発生

 戦後混乱期の昭和22年(1947年)5月20日に,福岡市内(現:博多区堅粕)の国鉄(現JR)鹿児島本線沿いの路上で起こった事件です.軍服取引の売り手A(日本人)さんと,買い手B(中国人)さんの2人死体が発見され、軍服取引の手付金(見せ金)として交付された10万円(当時、国会議員の月給が3500円)が,なくなっていることが明らかになりました.

 
 
捜査当局は,被害者の仲間である中国人らの申し立てにより,当初から軍服取引をめぐる「強盗殺人」であると断定し,捜査を進めていきました.結局,捜査当局は7名を「強盗殺人の共犯者」として逮捕しました.


 捜査線上に浮かんだのは,売り手側の手伝いをしていた西武雄(当時32歳)さんでした.西さんは,被害者の日本人Aさんに頼まれて,軍服取引の手伝いをしていたのです.西さんは,「ただAさんの手伝いをしていただけで,事件には無関係.どうしてAさんやBさんが殺されたのか分からない.自分はただ,軍服の現品を確認に行ったAさんとBさんを,代金交付場所たる食堂で待っていただけだ」と主張しました.

 
2人を殺したのは、石井健治郎(当時30歳)さんでした.石井さんは「偶然近くで日本人Aと中国人Bが喧嘩をしており,その仲裁に入ったとき,Bがおもむろに拳銃を出すしぐさをしたため,とっさに殺されると思い撃ってしまった.AもBの仲間だと思って撃った.」と主張しました.2人を誤って殺したことを認めた石井さんでしたが、西さんとの「強盗殺人」の共謀はきっぱりと否定しました.

二つの取引の交錯

 西さんと石井さんは,共謀共同正犯,すなわち共犯であるとされ,共に死刑が下されました.
 西さんは事件発生時,殺害現場にいなかったことから,軍服取引が始まる前に,2人で「強盗殺人計画」を話し合ったとされています.

 現に西さんと石井さんらは,軍服取引の約3時間前に,拳銃の取引を行なっていました.この時2人は初対面.この拳銃取引は,西さんがAさんに頼まれたAさんの護身用拳銃の取引であり,Aさん・Bさんを殺害するものでなく,まして「強盗殺人計画」など話し合っていないのです.

拳銃取引: 西さんらと石井さんの取引 
軍服取引: 西さん・日本人Aさんと中国人Bさんらの取引

 捜査当局は,この独立別個の拳銃の取引を,軍服取引の最中に起きた被害者2人の殺人と強引に結びつけ,西さん・石井さんら7名を一網打尽式に「強盗殺人の共犯者」として逮捕しました.

 2つの取引双方に関与していた西さんは「強盗殺人」の首謀者,被害者2人を殺害した石井さんは実行犯と見なされ,不当な取調べや裁判を経て,西さん・石井さん2名に死刑判決が下ったのでした.


無実の叫び

 死刑が確定した西さんと石井さんは,必死で無実を訴えました.

   「叫びたし寒満月の割れるほど」(西武雄)

 その後,2人の死刑教誨師であった古川泰龍氏も,彼らの無罪を確信し,全てを投げ打って再審運動に身を投じることになります.2人は何度も再審請求を出しますが,そのたびに退けられます.

 そして、無情にも1975年(昭和50年)6月17日,西さんの死刑が執行されてしまいました.石井さんに「最後まで闘ってくれ」という言葉を残して.再審の門戸を開いたとされる白鳥決定(同年5月20日)が出された直後のことでした.同じ日に,石井さんは無期懲役へと減刑され,1989年(平成元年)に仮釈放されます.

 しかし,2008年11月,石井さんは「西さんは無実だ」と言い続けて,亡くなりました.
 現在,直接事件を知る人々は存在しません.しかし,支援者らが再審を求めて今なお活動しています.